語彙の豊富さ、例えば寒さについて
語彙の豊富さは概念の豊富さ、それは思考の幅広さである。限られた語だけで言語活動していれば思考の領域も狭まる確率が高い。
キラリと光るアイデアや多様な概念を理解するために多くの語を使うべきだ。
例えば寒さの表現の仕方。
・肌を刺すような寒さ
・内臓まで締め付けられるような寒さ
・空気がぱりぱりしているような寒さ
・息が白くなるほどの寒さ
・口を開くのもためらう寒さ
少し離れて、本物を作るために。
今この瞬間。
のためだけに時間を使う時代になっている。
インターネットの力で情報が過剰に過剰に溢れ、どんなことにもすぐにアクセス可能で、欲望はすぐさま一定の満足を得られる。
すぐに得られるから今すぐ欲しいと思うのが当たり前になる。
今すぐ満たすことができるなら「待つ」ことはないがしろにされる。
なにかを作るとき、いろんなところから借りてきて即興で作ることができてしまう。
人はすぐを求めるから作り手もすぐ作らなくてはと借り物で作ってしまう。
しかし真に魅力のある創作には時間が必要だと僕は思う。時間が深み、味わいを生むと思う。
ひとりで作る時間が必要だ。
作品がみんなの喜びになってくれると信じて。
作品を持ってみんなに会いに行くために。
気にせず進め、心配しなくても君は勝手にたくさんの人から必要な影響を受けている
影響とは受動的なものであって能動的なものではない。
「この人の影響を受けよう」なんてことを思ってみてもただ自分が乱れるだけだ。
気づいたら影響を受けていた、人から言われて気づく、といった事後的なものだ。
「この人みたいになりたい」はいいが「この人の影響を受けよう」からは得られるものはなく無為である。
説明するとはレッテルを貼ること
説明するとは
言語化することであり、
物語化することであり、
レッテルを貼ることである。
上記の文章がすでに自己言及的である。
このことに自覚していないと思考が停滞し、発想が凡庸になるので、気を付けながらレッテルを貼らなければいけない。
カクテルグラスを割ってしまった。
大好きなbarで、手が滑ってグラスを落とし割ってしまった。高価なものを破損させてしまった罪悪感とマスターが長い間丁寧に扱っていたものを破損させてしまった罪悪感。
交通事故を起こしてしまったときの感情と本質的に同じなんだろうと思った。
最悪グラスや車は弁償できる。
だけどマスターがグラスに注いだ愛情(お気に入りかもしれないし、少なくともいつも丁寧に洗って拭いているのを見ている)や、人に傷をつけてしまったことは、完全にもとに戻すことはできない。
だからその損失を埋めるためには新しい何かを贈与するしかない。
そうして、すべての事は、前進していくのだと思う。
失ったものはもとには戻せない。その埋め合わせは新たなものを与えるしかない。
他にも気になることがある。
罪悪感についてです。
この罪悪感が重なり自分の許容を越えると、人は3つの選択を迫られる。
1.罪悪感に押し潰され自殺へ進む。
2.罪悪感に耐えられず感覚をマヒさせる。
3.罪悪感に耐えられず邪悪なものに自分の主体性を譲る。
長くなると思うので、この議論については次の機会に考えます。
20歳の内側
5の車輪
1の電話
1の電車
1の海と電波と桜並木
2のコーヒー
これら10のものたちは止まっている。
残りの動く10を4つに割ったとき見えてくるものとは?
大きな変化を求められている。
日記
行きつけのbarに飾ってある僕が描いたマスターの絵。
あるお客さんが絶賛して、自分の仕事中の写真を持ってきたら描いてもらえるかな、とマスターに話したらしい。描いてもらえると思いますよと、言っときましたとマスターは僕に話してくれた。
僕がbarにいるときは他のお客さんが僕の絵に言及している場面にはあまり遭遇しないが(たまにはある)、僕がいないときにちょくちょく話題に上がっているようだ。
もっとそういうことを想像してみようと思った。それは僕にやる気を起こさせる。
誰かの喜びを生み出せるなら、僕は創作していたい。さあ次の絵を構想し始めよう!