誤りについて
誤るから多様性へと開かれる。
誤りがなければどこまで行っても一本道である。
街で見知らぬおばあちゃんを見る。
自分のおばあちゃんに対して良い思い出があると親しみを感じる。自分のおばあちゃんに対して何も思い出がなければ、特別感情が動くことはないだろう。
自分のおばあちゃんと見知らぬおばあちゃんが脳のなかで繋がるのである。全く別人でも。これは脳の錯誤、誤りと言える。
この誤る機能(これを機能といっていいのか?)のおかげで、人に優しくなることができる。逆に厳しくなったりもする。
神はあえて人間に誤る機能をセットしたのではなかろうか。愚かさをセットしたのではなかろうか。
誤るから、世界は広がり変化する。
誤るから、なにかが起こる。
誤らなければ悪いことは起きない。良いことも、何も起きない。止まっている状態。つまり死んでいる。
誤るからこそ、生きているといえる。
いつも創業と成長期でありたい
企業の成長ステージは大きく4つに分けられる。その中の創業期と成長期の状態を、自分の精神状態の常としたい。
創業期とは、新しいものの土台を作ること。画期的なアイデアとルールを生み出し具現化まで持っていくパワーが必要である。他人からは全く評価されないので孤独なとき。
成長期とは、新しいアイデアを推進していく実行力とスピードが必要。結果が目に見える形となって表れ、他人に評価され、自己肯定感が増大するとき。
この二つを常にするには、なにかしらを同時平行する必要がある。ひとつでは必ず安定期から衰退期へ移行していくからだ。安定期に入ったところで、別のなにかの創業期に入らなければならない。その循環を上手にやることが、創業と成長期を常にすることに繋がるだろう。
正しさと文脈
その部分だけ切り取れば正しく異論はない。しかし世界は切り取られていない。全て歴史という文脈の中で行われる。つまり、いついかなるときも「昨日がある」ということを勘定にいれなければならない。
例えるなら
「他人を殴ってはいけない」という文章は正しいし同意する。
しかし、我が子が突然暴漢に襲われそうになったら暴力を使って止めるだろう。やめなさいと言ったところで暴漢に殺されてしまう状況では。
このような文脈の中に置かれたとき、「他人を殴ってはいけない」という文章はまるで正しさを失う。
言いたいのは、
切り取れば正しいが(言葉は切り取れるが)、
現実の世界は切り取れない。
ということ。
寄生獣3話その2、家族について
家族の中の関係性を4つに分けてみる。
・親と子供
・兄と弟
・夫と妻
・祖父母と子供
ミギーと新一の関係性はどれにあてはまるかあてはまらないか。
新一から見れば、ミギーは突然共生しなければならなくなった全くの他者として現れる。
ミギーから見れば、初めて意識を持った時点で共生しなければならない存在として新一は現れる。
ミギーの場合は簡単で、ミギーが子供で新一が親という関係性である。命を二人で共有しているので離れられないが、知性の差が歴然としているので子供特有の劣等は無い。そのため兄弟関係に近い親子関係である。
新一の場合、例えるなら、突然あなたには子供がいたことを告げられその子供の保護をお願いされたようなものである。しかもその子供が自分より頭がいいという、親子関係に近い。
現実的にはありえない親子関係だが、いびつな親子関係の物語として読める漫画が寄生獣である。親子の物語なのだこれは。
寄生獣 3話
3話冒頭の寄生獣が4人の人間を殺すシーンの頭部の変形も目新しさと魅力さがある。
ミギーの可愛さは漫画成功の大きなひとつだ。主人公と身体の一部のキャラとのコンビといえば、鬼太郎と目玉おやじが思い出される。鬼太郎の場合は、普通に父と子の関係性である(目玉おやじは力がなく去勢的であり、母的な役割も兼任している)。
寄生獣の場合は、突然一緒に暮らすこととなった他者である(身体が同じ一つなので家族的である)この設定は個人的に興味ある。僕にもしこの先家族ができるのならば、このような「突然偶然的な他者」がいい。
ということはどういうことだ?
行きずりの女とセックスをして妊娠というシチュエーションか?
しかしミギーは性的対象ではない。そこが決定的に違っている。
ミギーは妻より、つまり家族より、仕事仲間の方が近いか?
なるほどミギーは家族の問題と関わっている。
家族とは意見や価値観の一致など必要条件としない。身体の共有、生命の共有こそが家族の条件である。
となると僕の家族とは?
3話では、昔から幾度となく物語のテーマとされる「人間が一番悪魔的である」という命題が明示される。まずは、人間は無数の生物を殺し摂取する、という表現で。デビルマン的な大きな物語を期待させ、ワクワクしてくる。
寄生獣 1話と2話
絵や漫画の技術は低い。(28pの新一が教師に殴られたとされる場面。コマの流れが無機質というか意匠がない、リテラシーの低い読者はスムーズに読み取りにくい)
絵の構図が単純。シンプルともいえるが実はこのシンプルさがグロテスクさの過剰さを抑え読みやすくし、作家の世界観を如実に伝えているのでとても良い。つまり言いたいことは技術は低い。それはこの作家にとって全く悪いことではなく表現の重要な要素となっていて素晴らしいということ。
名作は第1話が最高によくできているのが常だ。寄生獣にもいえる。他の名作第1話もいろいろ調べてみたい。
第1話の役割は「読者を引き込むこと」につきる。まだこの物語についてなにも知らない読者をいかにして引き込むか。たらたら説明されても読む気にならない。何か大きな話が始まる予感。読者にとって気持ちいい物語が始まる予感。読者に関係あると思わせること。読む必要がないと思わせないことつまり読む必要があると思わせること。
第2話でヒロイン登場。物語の王道である。僕たちはいつだってこの展開を飽きず欲しがっている。そしてミギーと同じ寄生獣が登場してバトルする。展開は王道。読者をスムーズに導く。