sabion’s diary

自分を知るためのブログです。

「批評」の最低条件

批評家東浩紀の言葉です。

批評が成立する最低条件について。

「先行する何かはどうなっているのか?それに欠けているのは何か?ゆえに欠けているものを埋めるために私はこれを論ずるのだ」というロジック。

もうひとつ。

「何かに対して、何かが云われている。そのことに対して私はこう言う。というメタ構造が必要」

何かに対して私は言う、だけでは、ただの感想。批評とはいえない。

つまり批評には下調べや知識という分厚い情報が詰まっていなくてはいけない。

映画セブンの見解

スタイリッシュな変態映画である。

 

猟奇殺人を繰り返す犯人を追う残酷な内容の映画だが、映像センスとブラピのカッコよさとモーガン・フリーマンの渋さで繰り返し観るに堪える作品となっている。

 

私たちは何故こんなにも殺人の物語が好きなのだろう?この手の映画やドラマは毎年毎年作り続けられている。

殺人や死を覆い隠されている社会に私たちは生きている。なぜ覆い隠すのか理由はわからないが、街で動物の死体を見ると目を覆う。だが虚構の殺人や死には驚くほど惹かれている。

 

私たちの社会は衣食住に困ることがない人間が大半を占めている。人間は衣食住を満たされると退屈を感じるようになる。

 普段私たちがやっていることはその退屈を紛らわす行為である。乱暴にいうとこういうことである。人間は退屈に耐えられないから労働したり、恋愛したり、学んだり、遊んだりする。

この退屈を有効に紛らわす最たるものが死に直面することだと私は考える。人間は己の死を目の前にして退屈とは感じられない。だから死に直面する状況に持ち込めば退屈を感じることはないが、文字通りその状況は死んでしまうかもしれない状況である。みんな死にたくはない。そこで自分の身体の安全が確保された状況での、擬似体験としての死への直面を求めるのだ。

 これが、私たちが殺人を扱ったドラマや映画などの物語を求め続ける構造なのだと思う。

 

この作品自体は好きな映画ベスト10には入らない。ただ、ラストのブラピと犯人のやりとりの場面は、心揺さぶる映画ベストシーン10に入るぐらい良い。

 

 物語ラスト近、ブラピが「実は···」とつぶやきかけて自制するシーンがあるんだけど何を言いたかったのかずっと気になってる。誰か整合性のある答えを教えてほしい。

「実は···他に好きな女がいるんだ」??かな?

これからの会話は実験的にやっていこう

相手には申し訳ないが、これからしばらく人と会話をするとき、実験的にやっていこうと思う。

 

まず会話は何を目的としているかだが、ビジネスを別にすれば、基本的に「好かれるため」だと思う。情報の伝達も、そうすることによって好かれるためだろう。

 

最近読んだ7つの習慣という本に書いてあった会話で大事なこと。

•相手の発言から、何を望んでいるかを読み取ること。聞き手に何を言ってほしいのか、何をしてほしいのか。

•相手の立場、目線に同調して(感情移入)発言する。共感すること。問題の解決も聞き手が解決行動を起こせるようなアドバイスを与えること。

 

この2点を意識して会話することにします。これをうまく使いこなせれば会話の上達に資するはず。

 

あと、グライスの会話4原則も記しておきます。話者が守らなければならないことです。もしくは聞き手が仮定している会話のルール。

•質の原理

 真実を述べよ。

•量の原理

 必要な情報量を述べよ。多すぎても少なす

 ぎてもよくない。

•関連性の原理

 関係のあることを述べよ。話が飛び飛びで

 いけない。

•様態の原理

 曖昧な表現は避けよ。

 順序立てて述べよ。

暗号的な文章です。(自分しかわからないように)

停滞は変化の前兆である。

 

停滞を感じるのは、

壁が目の前に現れた証拠かもしれない。

現状に不満を感じているのは確かだ。

身体が変化を求めている。

停滞を感じているのは能動性の表れのひとつだ。

 

 

ずっとsでmしているが、なにか新しいことができないだろうか。

•新たなキャラクターを作る

•新たなネタのパターンを作る

•漫画コラボをやっているが、映画コラボも

 やってみる

•クイズや謎解き、ミステリーもの、

 読者との相互性

•商品の宣伝やお知らせ

ショートショート(小説)絵付き

•いろんな画風で(北斎、図形、ドラクエ、)

 

停滞は変化の前兆である。

停滞を感じるのは前へ進める者だけである。

行けるところまで行こう、行けるんだから。

人生に意味づけするとしたら、この「授かった能力の発揮」こそが一般的にいっても1番得心のいく意味だと思う。

 

 

 

 

今は付き合いたくない、というのは○○な相手なら付き合いたいということですよね。

仕事が忙しいとか、個人的にやりたいことがあるとか、金が無いとか。なにかと理由をつけて、「今は付き合いたくない」というが、その自分のやりたいことを邪魔しない相手なら付き合ってもいいということだよね。

 

遠出のデートに興味無く、僕が絵や漫画を描くことを期待してくれて、読書や映画が好きで、笑いのセンスがあり、金銭感覚が似ていて、

色気がある相手なら···ああ!僕は是非とも付き合いたい!

僕はこういう人が好きなんだ。

上記の条件を満たす女性と出会う確率の高い場所はどこだろう?

まずインドアな人だね。芸術系に関心のある人、笑いのセンスが必要だから馬鹿では駄目、贅沢しないのだから苦労してる人、つまり働いている人、だけど大企業とかではない(金持ちになるから)。そして色気は···これは場所は関係なく本人の天性だ。以上をまとめると、

•本屋、の店員や客

•美術館、のスタッフや客

•映画館、のスタッフや客

•カフェ、の店員や客

図書館、のスタッフや客

他は何が考えられるだろう?人に聞いてみよう。

エロティシズム考察

混乱した文章だが、書き綴ることによって整理していくつもりなので読者には迷惑をかけるが許してほしい。

この世は意味に溢れている。人が作り出したものには全て意味がある。意味の無い人生にも意味を当てはめないと不安で生きられない。

生きる意味はエロティシズムと笑いだ。
乱暴にいえば僕にとってこの2つだ。
生きててよかったと感じるのは圧倒的にこの2つだし、この世から無くなって絶望を感じるのもこの2つだ。
セックスではなくエロティシズムと言ったのは、女だからといって性的に欲望しない女もいるからだ。そしてまた、セックスしなくてもエロティシズムを充分感じられれば大いに満足できるからだ。
とは言ったもののセックスが重要なものであることには変わりない。

僕なりにセックスを定義してみる。
「セックスとは、生きている喜びと感謝を二人で体験することである」
人前でやる行為とは思わないが、うしろめたさを感じることもない。
バタイユのエロティシズムの定義をだいぶ借りています。彼はエロティシズムをこう定義しました。
「死におけるまで生を称えること」であると。

僕は求める!エロティシズムを!
生を実感でき、生の喜びを最大限感じられるのがセックスだからだ!
美味しいものを食べることより、旅行などより、勝負よりもエロティシズムこそが強烈だ!

エロティシズムの源泉たる女(異性)。エロティシズムにとって「禁止と侵犯」と「性的欲望」は不可分である。
エロティシズムの無い女になんの価値がある?だったらそいつは男でいいじゃないか。恋人にエロティシズムが無ければ、そいつは男でいいじゃないか、友人でいいじゃないか。
今私は勢いにまかせて偏ったことを述べているのかもしれないが、私の心は、全く正しいことを言ったときのようにスッキリしている。